自衛隊員だった父に読ませたい感動の物語!
震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。



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日本の『自衛隊』
隊員数より救った命の方が多い 唯一の軍隊

~寝ているのかと思ったら 口から大量の泥が~

自分たちで、寝泊まりするためのテントをはり、重機で瓦礫を取り除く。寸断された道路は舗装工事を施し、流れた橋の代わりに組立式の鉄橋を持ってきて設置する。自衛隊にできないことなんかないのでは?被災地を取材した記者たちは口々にそう話す。そんな自衛隊だがいちばんの仕事はもちろん人命救助だ。現地入りから1週間。彼らは2万人を越す被災者たちを救った。世界で唯一、投入された隊員数より救った命の方が多い軍隊だ。地震の翌日には現地入りし、人命救助を開始した自衛隊。奇跡の生還をいくつも実現させたが、その裏には何百何千という遺体との接触もあった。これが隊員たちの心を大きく動揺させた。「ある家に入ると、ふすまが倒れていました。それをひっくり返すと、おばあさんが寝ているんですね。これといって傷もないようだし、寝ているのかなと思って゛大丈夫ですか゛と声をかけたけど応答がない。抱え起こして顔をこちらに向けると、口の中から大量の泥が出てきました」つらいが、このケースはまだいいほうだ。窒息死。圧死。溺死。焼死……。ありとあらゆる死因で亡くなった人たち。遺体をそれ以上傷付けることなく運び出す隊員たち。その様子を見ていた被災民は語る。
「うちのばあちゃん、死んでるってわかってるのにね。上に乗っかった瓦礫をひとつひとつ丁寧に手でどかしてくれるんです。隙間から足が見えてるから引っ張り出してくださいって言うんだけど、それじゃ傷がつきますからって……」遺族が見ていようがいまいが、この方針は徹底されていた。「被災から4~5日で比較的きれいなご遺体は収容しました。でも、そこからがきつい」遺体収容を専門にやっていた隊員の言葉だ。津波が引いた後、被災地のそこかしこに遺体が転がっていた。多くは溺死である。ところがこれは全体の一部。多くは瓦礫の隙間など、外側からは見えにくい場所にある。「それらのご遺体は損傷が激しい場合が多い。だから隊員たちのストレスも大きいのです」


~ひとつでも多くの命 多くのご遺体を収容する~

車や船がめちゃくちゃになりながら流される映像はテレビやネットで散々流れた。しかし現場に降り立ってみると、また別の視点で震災の凄まじさが見えてくる。例えばジュースの缶が子供の拳くらいの大きさに潰れているのがいくつも転がっている場所があった。瓦礫と瓦礫がぶつかって、びっちりと圧縮されたのだろう。「そんな場所で、圧迫された状態で亡くなった方の遺体は本当に悲惨です」(若手自衛隊員)しかしひとつでも多くの命、多くのご遺体を収容する。隊員たちの士気は高い。「数人でチームを組み、海岸や住宅地を回ります。ただ見て歩くのではなく、『どなたかいらっしゃいますか』などと、ひとつひとつ声をかけます。そうしないと、うっかり見過ごしてしまうことがあるんです」あらゆるものが泥とヘドロにまみれている。人間も例外ではない。泥に汚れた人間は背景に溶けこんでしまい、見落としかねないのだ。人命救助の作業中に遺体を発見した場合、まずは赤い布のついた棒を側に刺しておく、とにかく最優先させるべきは生き延びた命を救うこと。「もうしわけないけど、ご遺体の回収はその次なのです」


~サリン事件でも活躍した中央特殊武器防護隊~

首都圏から福島県第一原発付近に入った中央特殊武器防護隊。95年の地下鉄サリン事件や東海村JCO臨海事故で活躍したことでも知られる部隊だ。「震災から2日後の13日に福島県入りしました。東電側の『安全だ』という言葉を信じて作業を始めたのですが、その直後に3号機が爆発。部員が負傷しました」大体3月いっぱいまでは、防護服の用意も万全ではなく、何日もわたって着回すことが状態化していたという。原子力研究者に言わせれば『言語道断』の行為だ。西日本の駐屯地から8機の大型輸送ヘリCH -47が飛び立ったのは震災の翌日だった。「最初の任務は福島原発の近くにある小学校での救出でした。取り残されている人が何十人もいるというのです」とヘリ隊員である小坂さんは語る。しかし、なかなか現地に到着することができなかったという。「普通、航空部隊というのは地図と現地の街並みや地形を見ながら目的地に向かいます。ところが、今回は目印となる街そのものが徹底的に破壊されつくしていたので……」本部と無線でやりとりしながら、なんとか目的地を探したが、到着してみるとまた新たな障害が待っていた。小学校の校庭が狭すぎて1機ずつしか着陸できないのだ。空では大型ヘリコプターの大渋滞である。小坂さんたちが小学校で救助活動を行っている同じころ、福島第一原発近くの上空では別のCH機が待機していた。小学校の校庭に代わる代わる着陸し、被災民を救助するヘリの隊員たち。頭の中でシミュレーションしていたものとは違いすぎる現実に、小坂さんの混乱とストレスは最高潮に達していた。任務を終え、ようやく基地に帰り着くと、そこではまた信じられない光景が……。「通常ヘリコプターはスポットと呼ばれる場所、乗用車でいえば駐車場のような場所ですね。そこに着陸・待機するのですが、一機だけ遠く離れた飛行機用の滑走路に着陸・待機しているんです」理由はなんと、『放射能汚染の可能性アリ』だった。遠くに置いとくだけで、別に洗浄するわけでもない様子。いったいどれだけの意味があるのか?隊員たちの心にいい知れない不信感が生まれた。


~自衛隊のヘリに手を合わせる おばちゃん~

被災から3日目。ヘリ部隊が現地入りした2日目の起床時間は5時。その日の任務は街の中に取り残された被災者を1人ひとりホイスト(吊り上げ救助)で助けるというものだった。津波の被害もさることながら、福島第一原発付近の問題は放射能汚染だった。敵が無味無臭なだけあって危険のバロメーターは東電と政府の発表情報だけ。福島原発関係者は、「情報の正確性は決して高いとは言えませんでした」と語る。そんな意識は被災者も敏感に感じ取っているようで、「ここを動かない」と強情をはる人も多かった。無理もない。長年暮らした場所が「放射能で汚染されました。さぁ逃げてください」と言われても、すぐに「はいそうですか」というわけにはいかないだろう。「被災者の救助はもちろん大変ですが、それなりに達成感があります。ところが自分を被災者だと思っていない人の救助は困難を極めました」と、ヘリ隊員、小坂さんはため息をつく。それでも自衛隊員たちは、空から陸から、できるかぎり細かく情報を集めながら、時には「お願いする」ように避難を促して、多くの人々を収容していった。「空からの場合は、街の上を15メートルほどの低空飛行で飛びます。そうしないと目視で被災者を発見することができないのです」自宅のベランダで大きな毛布を振って助けを求めるおばあさんに「今行きますね」と声をかけると、おばあさんはヘリコプターに向かって手を合わせたという。やっと来てくれた救助の手。おばあさんには神や仏に見えたのかもしれない。


~ボロボロになったアルバムでも決してぞんざいに扱わない~

瓦礫撤去の作業に付随するのが個人の持ち物や遺品の収集と管理である。どんなに汚れていようが、壊れていようが、もしかしたら誰かの大切なものかもしれない。財布や金庫、クレジットカードなど、財産に直結する物はもちろん、アルバム、ランドセル、携帯電話、本、パソコン………等々。物には必ず誰かの思い出が詰まっている。泥水をかぶってボロボロになったアルバムでも決してぞんざいに扱ったりしない。それ以上傷つかないように丁寧に扱い、持ち帰って整理するのだ。その際、拾った場所や日時も正確に記録する。その記録を元に3月11日当日の津波の流れから逆算して、どこから流れ着いたかもわからない品々のおおよその「生誕地」を推測するのだ。

戦地への派遣やその地での火器の使用など、きな臭い話題でしか議論させることはなかった自衛隊。一般のニュースに載るのは札幌冬祭りの雪像作りくらいのもの。ところが今回の震災で、彼らは真の実力を我々に見せてくれた。投入された人員より救った人の数の方が多い、世界で唯一の軍隊。我々は自衛隊の働きを永遠に忘れることはないだろう。



この自衛隊の活躍を多くの人に伝えて欲しいです

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==ここまで 【深イイ話】心が震える感動する話より ==



ーNori


P.S.
新刊本
書籍代から500円が寄附されます。
http://www.eqenglish.jp/osake/charity/



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